墨で消し去られた教育
2012年08月16日
終戦記念日である昨日。
日本テレビの『NEWS ZERO』の特集において、
墨で消された教科書のことが、
取り上げられていた。

先の大戦後、
日本がGHQに、実質アメリカによる占領統治を受けた際に、
その指令により、
それまで使われていた教科書の一部が、
先生たちが生徒らに墨で消させる形で、削除されたことは、
歴史の授業で習ったところである。
その消された内容は、
例えば、
「ヘイタイサン ススメ」という記述や、
戦闘機の紙飛行機の挿絵、
戦車や大砲の数を計算させる文章題、
「お国のため」とか「万歳」とか、
いわゆる軍国主義的・国家主義的な内容の部分とされる。
番組の中では、
当時生徒だった方や先生が登場し、
その教科書を使った教育について語っていた。
「命は国に捧げるものだ」
「いかにして教え子を戦場に送るか」
「国を守れ」
「先生の後に続いてくれ」
それに対して、今の教育は、
「いかに生きていくか」を重点的に教えていくものだという。
そして、その特集は、
「戦争は、武器がもたらすのではなくて、この心がもたらす」というダライ・ラマの言葉を引用し、
教育はその人の心を根本から変えてしまう、
教育はその国の将来をも変える力を持っている、
平和な国際社会を築こうと思えば、
日本だけでなく各国は、人間の尊厳、その国の歴史、平和や戦争について、何をどう教えていくか、
共通の土台を作っていく絶え間ない努力が必要だと、
そういうまとめで締められた。
あまりにも中途半端なまとめだと思った。
(特に後半)
私自身も、その戦中の教育について、
かつては偏ったものとして、笑っていたこともあった。
確かに、1941(昭和16)年に国民学校令が施行されてから、
その国家主義的色合いは強くなったことは否定しない。
だが、もう一歩、踏み込むべきではないだろうか。
何故、アメリカは、あの時に教科書に墨を引かせたか。
その理由は、端的に言えば、
その内容が自らの占領統治に不都合を生じさせるからだ。
逆に考えれば、
今の私たちにとって、既に直接的でなくなってしまったこと、
しかし、私たちが、自ら立ち上がるために大切なことが、
墨で消された部分に書かれていたのだとも言える。
それは、国を知り、国を愛し、国を守るために、
時に戦わなければいけないということだ。
やみくもに戦争をと言っているのではない。
むしろ、侵略を防ぐために、
その覚悟は持ったうえで、
きちんと主張を、アピールを、していかなければいけない。
当たり前の対応をしていかなければいけない。
自国だけ良ければいいと言っているのではない。
ただ他国に配慮することと、卑屈になることは違う。
竹島の不当占領問題、
事実でない従軍慰安婦の問題、
北方領土、
そして尖閣諸島のことにしろ、
その原点は、結局のところ、その考え方の欠如にある。
日本が、先の敗戦で、失ってしまったものは、
あの墨で消された中にある。
それを自ら取り戻さない限り、
結局私たちは、負けたままなのである。
Posted by タイガーあきよし at 22:03
│ひとりごと
この記事へのコメント
日本が、先の敗戦で、失ってしまったものは、あの墨で消された中にある。
それを自ら取り戻さない限り、結局私たちは、負けたままなのである。
その通りですね。
「平和」と言うのは「願う」ことも大切ですが「行動」してこそ手中にできる側面もあると思います。
私たちの暮らす現代のために戦ってくれた多くの先人の皆様に報うためにも日本は行動せねばならないときに来ていると思います。
それを自ら取り戻さない限り、結局私たちは、負けたままなのである。
その通りですね。
「平和」と言うのは「願う」ことも大切ですが「行動」してこそ手中にできる側面もあると思います。
私たちの暮らす現代のために戦ってくれた多くの先人の皆様に報うためにも日本は行動せねばならないときに来ていると思います。
Posted by わんポイント@はやし at 2012年08月17日 12:30