再見、東京!
2009年03月31日

引っ越しも、電気・水道等の手続きも全て終えて、
何も無い部屋に立った。
ベットと机の跡だけが、残っている。
次に部屋を出た時に、ここで過ごした4年間が終わる。
そう思うと、今までのことが次から次へと浮かんできた。
この部屋で倒れ入院をしたこと。
泰輔が寄ってくれたこと。
いろいろなことを、ここで考えたこと。
そして、仕事では、
日比谷公会堂で司会をしたこと。
多くの方と関わり合えたこと。
研修の練習を必死にやったこと。
デモ授業を行うために、浅草の街を歩いたこと。
隅田川へ何度も何度も来たこと。
…etc.
若干、前半の出来事を思い出すことが多いのは、
既に時を経て懐かしい想いがあるのと、それだけ毎日が必死で仕事に夢中だったからだろう。
横浜へ行ったときに思い出したように、
私が東京へ出てきた目的は、二つあった。
結論から言うと、一つは達成し、もう一つは達成出来なかった。
でも、私は気づいてた。
その目的の後ろに、本当の目的があったことを。
私はかつて高校を卒業し東京の大学に進学するも、半年で帰ってきてしまった。
その時の敗北感を、乗り越えたかったのだ。
他人には見えなくても、本人にとっては引っかかったままになっていることってある。
喉にはさがった魚の骨のように。
それが代替することの出来ない問題であるならば、やはり遡って取り除いてやる必要があるのだと思う。
私自身にとっては、それが出来たことが最も大きかったことであり、
また私が学んだ最も大切なことは、その手法ではなかったか。
そして、私は豊川に帰っても絶対に忘れない―。
妥協をせずに、常にチャレンジをし続けることを。
自分の出来ることを増やし、また深め続けることを。
より多くの人に貢献することを。
こう考えて、私は部屋のドアを閉じた。
結婚記念日
2009年03月30日
結婚し1周年を迎えることが出来た。
初めての結婚記念日を、
式をあげたホテルアソシアで送ることも考えていたが、
妻の提案もあり、新居で、妻の手料理とともに過ごすことにした。
~今晩は「ごちそう」です(笑)~
それにしても、あっという間の1年だった。
豊川と東京で、普段は別々に生活をしていたこともあるだろう。
まずは1年間やりきることが出来て良かった。
これからはふたりで共に暮らすことになる。
本当の意味での、新婚生活の始まりである(笑)
今までは見えなかったお互いの新たな部分も見えてくるのだろうが、
それをも楽しんで、日々を過ごしていきたいと思う。
その後、友人が撮影してくれた結婚式のDVDを改めて見て、
1年前の「あの時」を思い出しました。
(皆さん自身のものと同じように)それは最高の結婚式でした。
~ひと足早く、花が咲いた~
浅草デート
2009年03月26日
4年間の浅草での生活の中で、
いつでもひとりで行けるのに、行かずにとっておいた所があった。
結婚をした妻と行きたかったからである。
最後の仕事に合わせて、東京に来てくれた妻と、
ついに行くことが出来た。
行先は、浅草「花やしき」-
【日本現存最古のコースター】
別の意味で怖いとは聞いていたけれど…、
怖いというより、痛かった。
【少女歌劇団】
「大事なものは、夢、希望、そして愛~♪」
一生懸命唄って踊っていました。
【エコマン】
まさに時代の最先端をゆくヒーローです(笑)
あいにくの荒天。
強風のため、動いていないアトラクションもあったのは、
残念でした。
それにしても気づくのは、
周りにいる忍者や平安貴族や新撰組やお医者さんな人々…。
コスプレというかアニメから飛び出てきたような人が多くて、驚きました。
私は、「街の遊園地」としての花やしきにとても期待をしていたのですが、
何か今はその楽しみの中心が、違うところにあるような気がしました…。
その後、神谷バーで少し飲み、
水上バスで隅田川を下り、東京タワーを見て、
豊川に帰りました。
最後の授業
2009年03月26日
年度が変わる春期講習前の通常授業が、
私の東京での最後の授業となり、最後の仕事となった。
その日は「高2日本史」「高2国語」の授業で、
どこかで最後ということを意識し力を入れて臨んだはずだったが、
やり終えて、
「あ~俺、授業下手だなぁ~」
って、素直に思った(苦笑)
本当にまだまだである。
でもまだまだであるから、続けられるのかもしれない。
この1年間を振り返ると、仕事としては、
各種イベントに対する目標を達成出来たこと、夏期合宿および研修に参加し得たものがあったこと、
そして個々の生徒の志望校合格に貢献できたことが、嬉しかった。
授業面では、決してイメージ通りには出来なかったが、
目的であった「高校日本史を担当する」という第一歩は、間違いなく踏み出すことが出来た。
そして受講生徒を年間を通して一人も退めさせなかったのが、私の小さな誇りである(笑)
以下、生徒が書いてくれた感想より一部を抜粋。
「授業は毎回分かりやすくて、いつも頭にしっかり残ってました。すごく楽しかったです!!
本当に日本史を受けて良かったなって思います。ありがとうございました!」
「日本史に興味を持つことが出来たので、とても良かったです。毎回の授業が楽しみでした」
「今までお世話になったなぁと感じました。日本史に対する勉強意識が変わったので、本当に頑張りたいと思います」
「毎回毎回、授業が楽しくて分かりやすかったです
マニア目指します!!」
「高2の日本史、終わってしまいましたー
先生の授業のおかげで、日本史が得意になってきたと思います。
すごくわかりやすくて面白い授業をありがとうございました」
…
みんな、ありがとうね~☆☆
WBCで優勝した原監督の言葉を借りれば、「私の夢には続きがある」。
その夢は、地元・愛知で追い続けたい。
そして最後に、私の希望を通させてくれた会社とお世話になった校舎の皆さんに、
心から感謝したい。
ありがとう、侍ジャパン!!
2009年03月24日
父母と来ていた浅草演芸場の中で、
WBC決勝・5度目となった韓国との対戦の勝利を知った。
世界一、そしてV2の達成である!!
それを知ってから、ようやく寄席を楽しむことが出来た。
実は私はWBCに対して、今まであまり興味がなかった。
変わったのは、原監督が日本代表チームの監督に就任したからである。
それが今では、本を買い、慣れないマックを食べてクリアファイルを手にするまでに…(笑)

岩隈やイチロー、松坂、ダルビッシュ、小笠原や青木、中島、内川、岩村ら、
選手の皆の活躍があってのことは言うまでもないが、
私はそれ以上に、やはり原監督に感謝したい。
なぜならば、メジャーや国内で実績のある彼ら選手やコーチの選考を行い、
「侍ジャパン」「日本力」といった言葉のもとチームの一体感を醸成し、
毎試合の選手起用においても
最も今回大きな責任を負ったのは、原監督であるからだ。
(そして原監督もまた、山田コーチをはじめ有能なコーチ陣・スタッフに支えられたのだ)
北京五輪の結果と、その後混迷した代表監督選びのことを思い出せば、
今回の結果の素晴らしさが分かる。
日本チームの目的は、間違いなく「勝つこと」であった。
目的を達成することこそが、最高の仕事である。
だから、もう一度。
ありがとう、原監督。ありがとう、侍ジャパン。
また今後発売されるであろうWBC関連の本やDVDでこの余韻を、
そしてもうすぐ開幕する2009年の日本プロ野球および巨人の試合も楽しみたい。

37歳の誕生日
2009年03月20日
先日18日に誕生日を迎えた。早いもので、37歳である。
でも私は、この37歳になる4月~3月を「37期」として年度で捉えているので、
誕生日に歳を重ねる実感はあまりない。
次なる「38期」は、豊川で、妻と生活をしていこうと考えている。
じいさん
2009年03月19日
じいさんといっても、祖父のことではない。
先日、ふと豊川駅で下りた。
あまりにも突然で、そして何よりお腹が空いてなかったこともあり(笑)、
少し迷ったのだが、
思い切って、藤井屋に立ち寄った。
「行こう」と思ったその瞬間を大事にしないと、次にいつその機会が来るか分からない。
藤井屋は高校の同級生の「じいさん」の家である。
ちなみになぜ「じいさん」なのか、本人曰く「ふ(腑)抜けだから」とのこと。
なかなか言い得て妙である(笑)
うな丼を食べた後で、
同じく同級生の奥さんに来訪を告げ、
4年ぶりにじいさんと再会した。
久しぶりのじいさん。
でもじいさんの目はキラキラ輝いていて、何か吸い込まれそうだった。
私が言うのも変だけど、
高校生の頃、いつも多くの人に囲まれていた、
じいさんの魅力を改めて感じた。
お互いの近況や、誰々が今何をやっているかなど、
本当に他愛もない話をし、
でもそれがとても楽しくて、
笑い過ぎて少し疲れてしまうくらい、笑った。
今より少し若かった時みたいに、今日はテンションが高かった。
また、立ち寄るね。
あ、でも次はやっぱり同級生の「京楽軒」かな~(笑)
もしかして花粉症
2009年03月14日
最近どうも目がかゆくてしょぼしょぼしたり、鼻水が流れ出たり、くしゃみが止まらなかったりする。
まるで花粉症のような症状である。
以前に同僚から聞いたことがあるが、
花粉症というのは治るとか治らないとかいう類のものではないらしい。
人はそれぞれ花粉に耐えうる器のようなものを持っており、
その容量を超えてしまうと、もうずっと花粉症で、あとは程度の問題なのだという。
そもそも花粉症なんて、昔は無かったではないか。
だから認めたくない自分がいて、
目をこすりながら、鼻をかみながら、マスクをしながら、
「最近、カゼひいちゃってさ~」
なんて言っている。
素直に認めれば、それに対する薬もあるので楽になるのかもしれないが、
それでもルルを飲んでいる自分がいる。
ぶらり祖師ヶ谷大蔵
2009年03月10日
休日の一日、
東大2次試験の結果を校舎で確認した後で、
かねてより行きたかった街に向かった。
あまり自ら語らないが、
私は今の生徒たちと同じように高校を卒業した後、
八王子にある大学に進学した。
親元を離れての初めての一人暮らし。
今のようにケータイもインターネットもない時代。
私を待っていたのは、「孤独」だった。
その時同郷の親友に会うことが、どれだけ嬉しかったか。
イモが住んでいた街―
それが祖師ヶ谷大蔵である。
多摩センターから夜の小田急線を乗り継いで、
初めてこの街に下りたときの感覚を、忘れない。
今から20年前の話である。
【祖師ヶ谷大蔵駅】
駅は高架になってました!!
【商店街】
当時とても明るかったビデオレンタル屋も今はなく。
この辺りには西友があったはず。
心なしか、街が寂しくなったような気がする…
あった!!!
【イモの下宿先】
そう、確かここだったよね~。
6畳・風呂なしというのが当たり前な時代でした。
その後、駅の反対口へ。
あ、でもこちら側はとても賑やかい。
【そしがや温泉21】
行ったねー、そしがや温泉。イモのお気に入りでした。
もちろん当時はまだ20世紀です。
今日は商店街から小道に入った食堂で、肉じゃが定食を食べました。
【阿部食堂】
お客さんが皆でテレビの歌番組を見て盛り上がってる様子は、
何か昔と変わっていませんでした。
人情味あふれるこの街を、羨ましく思ったものです。
ひとり立志式
2009年03月05日
3月初旬のこの時期に、いつも訪れるところがある。
ひとつは国府高校剣道部である。
私自身が育ててもらった場所と、そこから巣立っていく後輩たちに、
感謝と激励の意を込めて。
そしてもうひとつは、立志塾―。
4年前に、お世話になった企業塾を離れた私たちはこの場に集まり、
夢と少しの不安を抱えながら、志を語った。
それはまさしく「立志式」であった。
その時の気持ちと皆を忘れないために。
今年もつかの間の帰郷。
でも何かぼんやりとしたまま、私は東京に戻ってきてしまった。
今、忙しさの中で少し先の見えていない自分がいる。
志望する大学に合格できず、悶々とする高校生の気持ちがよく分かる…。
昨日、立志塾のブログを見て、驚いた。
あこがれの塚越先生が、褒めてくれたような喜び。
そしてそれは、
今までの私を支えてくれるあまりにも重く力強い言葉。
何度も読み返した。
照れくさいけれど、
塚越先生、改めてお誕生日おめでとうございます。
ええ、また久しぶりに飲みにいきましょうね~(笑)
今年の私の本当の「立志式」は、昨日だったのかもしれない。
そんな気がした。