IRAGO
2006年08月28日

思わず突っ込みたくなる。
この看板が、愛知県・渥美半島の「伊良湖」を指しているのかは分からないが、
本当に地名というのは難しいなぁと思う。
大学の地理学専修で一緒だった松浦(石川県出身)も、当時同じように読み、
「『伊良湖』って湖じゃあないの~??」
って言っていたし。
知らない人は、分からないよね。
ところで「伊良湖」といえば、いちどここにあるホテルで泊まったことがあって、
俺が選んだとはいえ、2度と泊まりたくない思い出(笑)
あの時のみんなは、元気でやってるかな~!??

~永遠なれ、岡崎第1!!~
とらやき
2006年08月22日

大島校での授業前に、近くのファミリーマートに立ち寄る。
(大学生の頃バイトをしていたこともあり、私はファミマ好きである)
レジの前に並んでいた「とらやき」に驚いた。
その袋には『香月堂』と書かれていた。
香月堂は、地元豊川の企業で我が家から車で5分もかからない所にある。
ここ東京・大島のファミマで、豊川・香月堂の「とらやき」に出会う。
香月堂とそこに勤務する友人に「お前も頑張れよ」って、なにか励まされたような気がした。

~いっぱい買ってしまいました~
会津の精神
2006年08月18日

会津藩といえば、戊辰戦争において一気に東下したいわゆる官軍と戦い、無残にも敗北していった藩である。
会津鶴ヶ城は落城し、白虎隊の悲劇もこの時に生まれている。
多くの藩が強きに流れるなかで猛然と官軍に立ち向かっていった、会津のその精神を知りたかった。
それは、今でもいたるところに見ることができるように思った。
『ならぬことは、ならぬものです』
駅前のロータリーにも、町の道路の看板にも、城内の武道場にも見えるこの言葉。
古くは藩校日新館での子ども向けの「什(じゅう)の教え」、今の「あいづっこ宣言」の最後に、皆で唱和する言葉だという。
力強い言葉。そしてこうして残っていることに、素晴らしさを感じた。
(帰りに乗ったタクシーの運転手さんは、「今の若い子はそんなことないですよ。年寄りは頑固だけど」と言って笑っていた。
しかし磐越西線のなかで、携帯でヘッドホンを付けずに音楽を聴いていた女の子を、男性が一喝したのを確かに見た。)
教育は人を変える。教育は国を造る。今の日本はどうか??
そして私自身、日本についてまだまだ何も知らないことに改めて気付かされた。


ぶらり会津【後編】
2006年08月18日

【会津へ向かう】
磐越西線でおよそ1時間。
途中、猪苗代湖を左手に望み、緑の中をゆっくりと進む。

【会津若松駅より】
会津若松に到着!!!
郡山と比べても、駅前は驚くほど静かで、何もない。
るるぶを買い、ここから歩いて鶴ヶ城へ。

【会津新撰組】
道中にて。
会津といえば…、新撰組!??
そう、新撰組は当時京都守護にあたった会津藩の下に置かれていた。

【会津葵】
「三ッ葉葵!!」
岡崎市民も喜びそうだが、実は「会津葵」と呼ばれ、徳川将軍家の紋とは葉の芯の数が異なる。
ここは、徳川御家門・会津松平家の本拠地なのだ。

【野口英世青春通り】
会津といえば、この人も!!
野口英世が15~19歳までを過ごした街。
そして彼はこの通りで、とある女学生に一目惚れをしたという。

【タイガーパーキング】
さらにこの地に親近感を感じた瞬間(笑)

【会津鶴ヶ城】
鶴ヶ城へ到着。まさに威風堂々。
蒲生氏郷が築城した当時は、7層であった。
ここの城内の博物館が面白い。
急に停電になってしまい、当初館内に入れなかったのも、また思い出。

【飯盛山へ】
その後、飯盛山へ向けて歩き出す。
とても暑い1日であったが、歩かなければならないような気がして、歩ききった。
鶴ヶ城から1時間半ほどかかっただろうか。

【鶴ヶ城を望む】
そして飯盛山より、鶴ヶ城を望む。
見えないことはないが、確かに決して大きくは見えない。


【自刃の地】
ここは、白虎隊自刃の地―。
彼らはこの飯盛山で鶴ヶ城を見、その後自ら命を絶った。
残念ながら、私は今なお彼らの気持ちを分かることが出来ない。

【会津若松駅】
多くのことを感じ、考え、会津若松を後にした。

【狩人】
会津若松駅にて、狩人が私を見送ってくれた(笑)
ぶらり会津【前編】
2006年08月17日
【北の玄関口 上野駅】
実は東京から北へ行ったことは、あまりない。
「今から旅にいく」 そんな感じがして少しドキドキ。
昔も今も、多くの人が、この駅でいろいろな興奮を感じてきたのだろう。
それにしても上野駅は大きい。改札に入ったその中に商店街があるみたいだ。

【いきなり並ぶ】
信号の故障があったようで、いきなりダイヤの乱れ…。
ものすごい人が並ぶ。
思わず立ちつくす人、多数。

【黒磯駅にて】
なんとか乗り継いで黒磯へ。さっきの上野駅がウソのよう。
この駅を境に、何か雰囲気が変わるような気がする。
思わずパチリ☆

【夜の郡山駅】
福島県郡山へ到着。
駅前には高いビルが立ち並び、新しくきれいな街の印象。
人はあまり多く見られなかったが。

【つづく】
はい、そして1日目はここまで~!!
「ぶらり会津」なのに会津にたどり着けず(笑)
ここ郡山に泊まることになりました。
寧々家で一杯飲んで、ステーションホテルでおやすみなさい。
続きはまた明日!?
実は東京から北へ行ったことは、あまりない。
「今から旅にいく」 そんな感じがして少しドキドキ。
昔も今も、多くの人が、この駅でいろいろな興奮を感じてきたのだろう。
それにしても上野駅は大きい。改札に入ったその中に商店街があるみたいだ。

【いきなり並ぶ】
信号の故障があったようで、いきなりダイヤの乱れ…。
ものすごい人が並ぶ。
思わず立ちつくす人、多数。

【黒磯駅にて】
なんとか乗り継いで黒磯へ。さっきの上野駅がウソのよう。
この駅を境に、何か雰囲気が変わるような気がする。
思わずパチリ☆

【夜の郡山駅】
福島県郡山へ到着。
駅前には高いビルが立ち並び、新しくきれいな街の印象。
人はあまり多く見られなかったが。

【つづく】
はい、そして1日目はここまで~!!
「ぶらり会津」なのに会津にたどり着けず(笑)
ここ郡山に泊まることになりました。
寧々家で一杯飲んで、ステーションホテルでおやすみなさい。
続きはまた明日!?
「のむてつ」と再会
2006年08月14日
驚いた。
夕方何気なくHotmailを開くと、そこに「のむてつ 帰国しました」の文字。
そしてさらに驚くことに、
連絡をとったその日の夜に、なんと豊橋で会うことになった!!
のむてつ(以下、のむちゃん)のいる実家は甚目寺なのに、なんという行動力!!!
さすが4年前に教員を辞め、上海へ渡った男である。

2年前、私が上海へ行ったとき以来の再会。
のむちゃんとは、豊橋西高で一緒だった。
彼は教員、私は常勤講師であり、立場は違えど学校での教育について共に語り合った。
それも早や6年前のこと。
そして当時と同じ豊川の河川敷で、今度はお互いの話をした。
「人生において何をしていくか」「そのために今、何をしていくか」
そのような話。
のむちゃんと出会った頃、
私は初めての高校での講師で、とにかくガチンコだった。
今でも大好きなあの頃を、思い出すことが出来たよ。
あの頃の気持ちを忘れずに、これからもお互いに頑張っていこうね!!!
夏の素敵なサプライズを、ありがとう。
OB会の日に想う
2006年08月13日

年に1度の国府高校剣道部OB会に出席。
その後、しみはんと高校生だった頃を振り返って話をした。
高校生の頃、俺らは確かにがむしゃらだった。
幸か不幸か毎日練習を見てくださる先生はいなかったので、強くなるためには自分たちで何とかするしかなかった。
そのために…
油伝でリュックタイプのバックを買って砂をつめ、夜中に走った。
春休みには家から高校まで、約14kmの道のりを走って通った。
ふたりだけで合宿を行った。
練習に緊張感を出すために、俺がしみはんに叱られるという空芝居もうった。
…
思い出は数え切れない。
決して手法が正しかったとは思えないが、でも俺らは以前より強くなった。
目標に向けがむしゃらになれること、一生懸命になれることは素敵なことだと思うし、その時の俺らは輝いていたと思う。
そしてこの経験を通じて、俺は自ら練習をすることで、自分自身を変えていくことが出来るということを実感した。
(あまりにも素敵な高校生活だったので、卒業した後に現実とのギャップに苦しんだ。
「あの頃に戻りたい。」
都内の大学を中退し愛知へ戻り、それでも大学2年の夏まではそう思ってた。
変わるきっかけになったのは、またしみはんと、東京から豊川まで歩いて帰ってきた約 300kmの道のりだった。)
私は、結局はこの高校のときの経験を、子どもたちに伝えたいのだと思う。
「自ら、自分自身を変えていくことが出来る」ということ。
「自分の人生は、自分で創っていくことが出来る」ということ。
それは剣道における流星会の活動も、社会科を教えることも、「7つの習慣J」を実践することも、
根本にあるところは全て同じである。
そして私自身も「自分の人生を、自分で創る」人でありたい。
そのために、私もがむしゃらであり続けたい。
もう高校生の頃に戻りたい訳ではない。ただあの頃と同じような心持ちで、常に仕事をしていきたい。
そうあり続けたい。
年に1度のOB会の日に、本当に大切なことを思い出し、気付くことが出来た。
幸か不幸か毎日練習を見てくださる先生はいなかったので、強くなるためには自分たちで何とかするしかなかった。
そのために…
油伝でリュックタイプのバックを買って砂をつめ、夜中に走った。
春休みには家から高校まで、約14kmの道のりを走って通った。
ふたりだけで合宿を行った。
練習に緊張感を出すために、俺がしみはんに叱られるという空芝居もうった。
…
思い出は数え切れない。
決して手法が正しかったとは思えないが、でも俺らは以前より強くなった。
目標に向けがむしゃらになれること、一生懸命になれることは素敵なことだと思うし、その時の俺らは輝いていたと思う。
そしてこの経験を通じて、俺は自ら練習をすることで、自分自身を変えていくことが出来るということを実感した。
(あまりにも素敵な高校生活だったので、卒業した後に現実とのギャップに苦しんだ。
「あの頃に戻りたい。」
都内の大学を中退し愛知へ戻り、それでも大学2年の夏まではそう思ってた。
変わるきっかけになったのは、またしみはんと、東京から豊川まで歩いて帰ってきた約 300kmの道のりだった。)
私は、結局はこの高校のときの経験を、子どもたちに伝えたいのだと思う。
「自ら、自分自身を変えていくことが出来る」ということ。
「自分の人生は、自分で創っていくことが出来る」ということ。
それは剣道における流星会の活動も、社会科を教えることも、「7つの習慣J」を実践することも、
根本にあるところは全て同じである。
そして私自身も「自分の人生を、自分で創る」人でありたい。
そのために、私もがむしゃらであり続けたい。
もう高校生の頃に戻りたい訳ではない。ただあの頃と同じような心持ちで、常に仕事をしていきたい。
そうあり続けたい。
年に1度のOB会の日に、本当に大切なことを思い出し、気付くことが出来た。
いろいろあったけど
2006年08月10日
チームの先輩が、ベンチャーリンク・グループを卒業されることとなった。
送別会の後、
「いろいろあったけど、本当にありがとうございました」
と言葉を贈った。
御徒町の駅でひとりになって、
何故か涙が出た。
撮影前夜
2006年08月07日

深夜のイトーピア・第4研修室。
当たり前のことだが、このブログを見るまで、
明日のモデル授業撮影のために、私がこの時間までロープレをしていることを誰も知らない。
どこかで、本当に良い授業とは「工数を超えたところにある」と信じている。
そしてかつての進学塾で新入社員だった頃、毎朝毎夜授業準備のために通った代田教室のことを思い出す。
子どもたちのため、今後見ていただけるファシリテーターの方のため、そして自分自身のために、
ベストの授業を行いたい。