今日の牛久保【牛久保公民館】
2010年09月02日
牛久保に帰ってきて、
牛久保の街を歩いたら、
牛久保のことを、書きたくなった。
当たり前ではあるが、
牛久保も変わってきている。
私が離れていたのは暫くの間だが、それでも感じる。
その牛久保の、
いまの姿を、
切り取って、綴っていきたい。
タイトルは「今日の牛久保」だが、
「今日のファイトさん」同様、決して毎日という訳ではなく(苦笑)、
私の心が動いた時に、
形にしていけたらと思っている。
どうぞお気楽に、
よろしくお願いします。
◆ ◆
さて、1回目は、
「牛久保公民館」である。
意外に思う人もいるかもしれない。
その一方で、ニヤリとされた方もいると思う。
そう、ここにあるのは、
『参州牛久保之壁書』である。


『参州牛久保之壁書』とは、
かつて牛久保城主で、のち(1618年:江戸時代初期)に越後国長岡へ移った牧野氏の、
牛久保以来の家訓として伝えられた、武士の守るべき掟である。
「常在戦場」から始まるこの壁書は、長岡藩の精神規範となった。
それは、戊辰戦争で焦土と化した長岡を舞台に描いた、山本有三の戯曲『米百俵』の中にも、
見ることができる。

窮状を見かねた支藩より送られた米百俵を、
大参事・小林虎三郎は藩士に分けるのではなく「米を売り学校を立てる」という。
(これは「米百俵の精神」として知られ、小泉元首相の所信演説に用いられたことでも有名である)
反発する藩士に対して、虎三郎が言い放つ場面は、
まさにクライマックスであり、
心が震える。
(以下、『米百俵』より抜粋)
さて、おのおのがた。そのもとたちも、この掛け軸の文字は、よもお忘れはござるまい。
これを知らぬものは、ここには一人もおらぬはずだ。
「常に戦場に在り。」
このもじ、このことばは、当藩の者である限り、もの心づくと同時に、必ず目にし、耳にし、口にしているところのものだ。
申すまでもなく、これは参州牛久保のおん壁がきだ。
その壁がきのうちの、第一条の文字だ。
(抜粋、ここまで)
ちなみに、こうして造られた学校から、
真珠湾攻撃時の連合艦隊司令長官・山本五十六も生まれたのである。

~山本五十六筆の「常在戦場」~
しかし、私自身は、
『参州牛久保之壁書』という言葉は、小学生の頃から知っていたが、
それがどういうものなのか、
具体的な内容について教えてもらった記憶は、残っていない。
牧野氏と共に牛久保で生まれた『参州牛久保之壁書』の精神は、
牧野氏と共に長岡へ移り、
実は牛久保にはあまり残らなかったのではないかと、
そんな気もかすかにするのである。

~牛久保小学校にある碑には、「常在戦場」の文字は無い~
【場所】
『牛久保公民館』
0533-86-6251
豊川市牛久保町若子52-1
営業:9:00~21:00
定休:月曜日(祝日のときはその前日の日曜日)・その他
ちなみに牛久保公民館では、近々こんな催しも。。
